愛の神様は、この先に迫りくる試練の舞台を克服できるように、人間を鍛錬させる

正義の道は大変ですが、神様が求めているその群れの道に責任をもっていく道なので、落胆するのはやめようというのです

9     韓国においても、監獄から出発したのが統一教会の歴史です。呪いと背反と迫害の道から始めました。私は骨のない男ではありません。西大門刑務所に入っていた時、拘置課長という人が私を見て言った言葉を忘れません。死んでも忘れられません。一ヵ月もたたないうちに、彼らが私を訪ねてきて、「昔、聞いていた統一教会の文某と、今、(実際に)知った文某は違う」と言って謝罪するのを、この目ではっきりと見ました。

正義は、どんなに残酷な迫害の鎖の中でも勝利することを見てきたのです。ですから、正義の道は大変ですが、神様が求めているその群れの道に責任をもっていく道なので、落胆するのはやめようというのです。私は、落胆しませんでした。受難のむちの跡があまりにもたくさん残っているとしてもその時に受けた傷は、何ともないというのです。

鍛錬の過程は、鍛錬自体で終わるのではなく、喜びの刺激をより価値あるものとして感じられる、一つのプレゼントとして下さった受難の道だというのです

10    平凡なことをも、絶対的な価値の基準に上げるのは、受難の境地でのみ可能です。皆さんが、獄中生活の中や、厳しい飢饉の状況に立たされれば、分かるでしょう。試練や受難は悪いことではありません。試練や受難の中で、生命の価値を立てていく力と希望と欲求をもった人にとっては、その試練と受難の困難が、困難としてだけで終わるのではなく、未来における喜びの刺激となり得るのです。また、未来の喜びだけでなく、希望の国を訪ねていくことができます。

困難を克服しようとする希望をもっていれば、その場から喜びの天国を成就することができます。困難を克服しなければ、どんな希望も成就されないので、愛の神様は、この先に迫りくる試練の舞台を克服できるように、人間を鍛錬させるのです。ですから、その鍛錬の過程は、鍛錬自体で終わるのではなく、喜びの刺激をより価値あるものとして感じられる、一つのプレゼントとして下さった受難の道だというのです。このように考えるとき、その受難は悪いことではなく、困難も悪いことではありません。それが、私たちの幸福の基盤となり、あすの幸福を相続できる要因になるのです。

(「真の父母経」第七篇、第二章、第三節より)