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イエス様がひとり子だと語ったので、神様は彼のためにひとり娘も送られたでしょう。神様の二千年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です -1986.3.15
~from 世界家庭 天一国6年天暦6月(2018-08)号より
解説
サンクチュアリ教会およびUCIを支持する人々の言説の誤り(16)
前回に引き続いて、「真のお母様の無原罪誕生」について論じます。真のお父様は、お母様について「神様を根として初めて歴史上に……現れた主人公」であると語っておられます。お母様は神の血統を持つて生まれておられるのです。前回の内容と併せてお読みください。
なお、これらの内容を総合的に理解し把握するためには、「真の父母様宣布文サイトhttp://trueparents.jp/)」 の掲載文や映像をごらんください。教理研究院
注、真の父母様のみ言や『原理講論』および教理研究院が発表した内容は「青い字」で、UC—側の主張は「茶色の字」で区別しています。
二十、独り娘(独生女)のみ言は真理である(その2)
(1)キリスト教の歴史は”独り娘☆を求めるための歴史
真のお父様は、キリスト教の歴史が独り娘(独生女)を求めるための歴史であったと述べておられます。
「イエス様がひとり子だと語ったので、神様は彼のためにひとり娘も送られたでしょう。神様の二千年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。イエス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、二千年のキリスト教の歴史は、娘(独り娘)を求めるための歴史です」(『真の父母経』69ページ)と語っておられます。そして、キリスト教が準備するその独り娘とは、聖婚される前から「堕落する前のアダムと共にいたエバ」「堕落していないエバ」であると明言しておられます。
「再臨の主が来られるときには何の宴会が催されると言いましたか。(「婚姻の宴会です」。)……婚姻の宴会とは結婚の宴会です。そうですね。(「はい」。)こんな話をすると異端だと大騒ぎをします。(キリスト教徒は)無性にねたましくなるのです。
婚姻の宴会、すなわち小羊の宴会をしようとするならば、イエス様の新婦が必要です。新婦を探し出さなければならないのです。その新婦とは誰かというとエバなのです。堕落する前のアダムと共にいたエバなのです。再臨の主は三人目のアダムです。イエス様は二人目のアダムであり、その後来られる主は三人目のアダムなのです。そして、三人目のアダムが堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです」(『祝福家庭と理想天国(I)』584〜585ぺージ)
「再臨主は何をしに来られるのでしょうか。再臨時代は完成基準の時代であるために、再臨主は人類の母を探しに来られるのです。すなわち、新婦を探しに来られるのです。新郎であられる主がこの地上で探される新婦は、堕落圏内で探す新婦ではありません。堕落していない純粋な血統をもつて生まれた方を探すのです。それでは、そのような新婦、すなわちその母とは、どのような基盤の上で生まれなければなりませんか。堕落した世界のアベル的な母の基盤の上で生まれなければならないのです。
ですから、皆さんの母は堕落したエバの立場に該当するのであり、次の母はイエス時代においてのマリヤの立場に該当するのです。また、その次の母はイエス時代のマリヤの保護を受け、祝福のみ旨を果たすことのできる、罪の因縁とは全く関係のない処女として、母(真のお母様)の立場に立つことができなければならないというのです。
これをイエス様を中心として成就させようとしましたが、すベてを果たすことができず霊的にのみ連結されたために、今日、復帰の終末時代に来て、これを再現させてもう一度一致させていく作戦を広げなければなりません」(同、909ぺージ)
真のお父様は、再臨主が地上で探される新婦(真の母)とは「堕落する前のアダムと共にいたエバ」「堕落前のエバ」「堕落していないエバ」「堕落圏内で探す新婦ではありません。堕落していない純粋な血統をもって生まれた方」と語られ、さらに「罪の因縁とは全く関係のない処女」であると語っておられます。これらのみ言は、真のお母様の「血統転換、私は母胎からなのです」という“独り娘”のみ言が真理であることを裏づけています。
キリスト教は再臨主を待望してきましたが、同じように、独り娘を求めるためのキリスト教の歴史でもあったのです。それは、再臨主お一人では「真の父母」になることができないためです。真のお父様は次のように語っておられます。
「原理は何をいつているかというと、完全なるアダムが造られた場合には、完全なるエバが復帰されるというのです。完全なるプラスが現れた場合には、完全なるマィナスは自動的に生まれてくるようになっています。それは創造の原則です。……完全なる男性が生まれた場合には、完全なる女性が生まれるようになっているということを、聖書では、女(エバ)はアダム(のあばら骨)によって造られたと象徴的に書いてあります」(『御旨と世界』694ぺージ)
真のお父様は、「完全なる男性が生まれた場合には、完全なる女性が生まれるようになっている」のが”創造の原則”であると語っておられます。
このようにして、キリスト教の歴史は、人類の「真の父母」を迎えるために、再臨主を待望し、かつ独り娘を準備するための歴史でもあったのです。
(2)人間始祖の「霊的堕落のみのときの救援摂理」について
①人類歴史の目的は「エデンの園」を復帰すること
『原理講論』の「終末論」には、「人類歴史の目的は、エデンの園を復帰するところにある」と論じられています。
「人類歴史の目的は、生命の木を中心とするエデンの園を復帰するところにある。
……人間始祖(アダムとエバ)が堕落したために、神が『生命の木』を中心としてたてようとしたエデンの園は、サタンの手に渡されてしまったのである。ゆえに、アルパで始められた人類罪悪歴史が、オメガで終わるときの堕落人間の願望は、罪悪をもって色染められた着物を清く洗い、復帰されたエデンの園に帰っていき、失った『生命の木』を、再び探し求めていくところにある……。
……『生命の木』とは完成したアダム、すなわち、人類の真の父を意味しているのである。……歴史の目的は、『生命の木』として来られるイエスを中心とした、創造本然のエデンの園を復帰するところにあるということを理解することができる」(145〜146ぺージ}
このように『原理講論』には、「人類歴史の目的は、生命の木を中心とするエデンの園を復帰するところにある」とあります。生命の木であるメシヤが地上に降臨されるということは、「エデンの園」が復帰されたことを意味します。そして、エデンの園にはアダムだけでなく、エバも存在します。
「神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された。したがって、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきで(ある)」(『原理講論』97ぺージ)
エデンの園には、アダムだけではなく、エバもいなければなりません。人間始祖アダムとエパが「エデンの園」を追い出された、いわゆる「失楽園」は、肉的堕落が起こってアダムまで堕落した後の出来事です。
したがって、神の復帰摂理におけるメシヤ誕生は、新しい時代が到来したことを意味します。なぜなら、メシヤ(生命の木)が地上に遣わされるということは、地上に「エデンの園」が再現される時代を迎えたことになるからです。
ところで、人類歴史の出発点を大きく分けるならば、次の三つになります。①「アダムとエパのどちらも堕落していないとき」、②「アダムは堕落していないけれど、エバだけが霊的堕落をしたとき」、③「アダムとエバのどちらも堕落したとき」です。
アダムとエバのふたりがエデンの園から追い出された“失楽園”は、このうち③の「アダムとエバのどちらも堕落したとき」になります。したがって、エバが霊的堕落をしたとしても、アダムが堕落していないとき、まだふたりは「エデンの園」の中にいたのです。そのとき、霊的堕落をしたエバに対する救いの摂理が行われていました。
②人間始祖の「霊的堕落のみのときの救援摂理」について
エデンの園の中にいるエバは“無原罪”であり“神の血統”であることを知らなければなりません。エデンの園のエバは、霊的堕落をしたとしても、まだ神の救いのみ手が届く圏内にいたのです。
ところで、UCIやサンクチュアリ教会を支持する人々が、「お母様は無原罪で誕生された方ではない」として、真のお母様の無原罪誕生を否定するために用いるみ言に、次のみ言があります。
「アダムが責任を果たすことができなかったために堕落したので、その責任を完成した基準に立つには、エバを堕落圏から復帰して再創造し、善の娘として立ったという基準に立てなければなりません。そのようにしなければ、アダムの完成圏が復帰できないのです」(『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』38ぺージ)
「真の母がサタンに奪われたので、本来の人間(メシヤ)は、死を覚悟してまでも、サタン世界から(真の母を)奪い返してこなければなりません」(『祝福家庭と理想天国(1)』561ぺージ)
真のお父様は、天の父母様(神様)と完全一体となっておられ、その語られるみ言に矛盾はありません。前述したお父様のみ言にあるように、真のお母様は“独り娘”としてお生まれになっています。では、これら二つのみ言をどのように理解すべきでしょうか。
真のお父様が、「アダムが責任を果たすことができなかったために堕落したので……」とか、「真の母がサタンに奪われたので、本来の人間(メシヤ)は、死を覚悟してまでも・・・・」と語っておられるように、これらのみ言は「エデンの園」において起こった堕落の問題に対する“アダム自身による蕩減”、“アダム自身の責任”について述べているものです。
『原理講論』は、失楽園前の「エデンの園」において、もし、アダムが堕落せずに完成していたならば、復帰摂理はごく容易であったとして、次のように論じています。
「エバが(霊的)堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである」(111ページ)
この『原理講論』の論述は、いわば「霊的堕落のみのときの救援摂理」と呼ぶべきものであり、たとえエバが「霊的堕落」をしたとしても、もしアダムが成長期間を全うし“完成したアダム”になっていれば、復帰摂理はごく容易に成されていました。しかし、アダムが完成できないまま、「肉的堕落」をすることで「サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきた」というのです。結局、エデンの園のアダムは、エバを天使長から取り戻すことができませんでした。
それゆえ、人類歴史の終末期において、メシヤが来られたならば、メシヤは地上世界の「エデンの園」の中において、人間始祖アダムが果たしえなかった責任である、上述した「霊的堕落のみのときの救援摂理」の内容を“蕩減復帰”しなければならないのです。
ところで、失楽園前の「エデンの園」の中にいたエバは、“霊的堕落”をしたとしても、その時点においては、まだ「原罪」を持っておらず、「サタンの血統」にも連結されていません。すなわち、原罪とは「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」をいうのであり(『原理講論』121ぺージ)、エバの霊的堕落だけでは、エバの“自犯罪”であり、「血統的な罪」とはなっておらず、まだ「原罪」ではありません。事実、霊的堕落の時点において「失楽園」は起こっておらず、アダムが完成してエバを救済したならば、「失楽園」は絶対に起こりえなかったのです。ゆえに「霊的堕落」が起こった時点でのアダムとエバは、まだ「エデンの園」の中にいる状況です。
また、真のお父様が「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません」(『訪韓修練会御言集』12ページ)と語っておられるように、天使長とエバの霊的堕落は、横的愛の問題としての“偽りの夫婦関係”であり、その時点では、エバは「サタンの血統」に連結されているわけではありません。お父様が、「長子(アダム)が庶子のようになりました。血筋が変わりました。本然の愛を通して神様の血統を受け継ぐべきでしたが、(肉的)堕落することによって他(サタン)の血筋を受け継ぎました」(八大教材•教本『天聖経』186ぺージ)と語っておられるように、人間始祖アダムとエバは、「肉的堕落」をすることによって「サタンを中心として四位基台を造成し・・・・サタンを中心とする三位一体」となり、サタンの血統に連結するようになったのです(『原理講論』267ぺージ)。
それゆえ『原理講論』が述べるとおり、肉的堕落によりサタンを中心とした“悪なる三位一体”をつくる以前の霊的堕落のみの時点では、サタンの血統に連結していないため、「復帰摂理は、ごく容易であった」(111ぺージ)というわけです。
そして、メシヤが地上に来られるならば、地上世界において復帰された「エデンの園」で、人間始祖のアダム自身が果たせなかった「エバを堕落圏から復帰して再創造し……」「サタン世界から奪い返して……」という「霊的堕落のみのときの救援摂理」を、メシヤご自身がアダムに代わって蕩減復帰しなければならないのです。
③「堕落圏から……」「サタン世界から……」というみ言は何を意味するのか?
ところで、地上において復帰(再現)された「エデンの園」には、人間始祖のときと同様、そこに、メシヤ(アダム)と三人の天使長、および独り娘(エバ)が存在することになります【右図を参照】。そして、復帰された「エデンの園」の中にいる独り娘は、やはり人間始祖のときと同様に、聖婚する前から「神の血統」であり、「無原罪」なのです。この点については、前述した真のお父様のみ言のとおりです。
しかしながら、復帰(再現)された「エデンの園」にいる三人の天使長に対しては、洗礼ョハネ的人物をはじめとする「メシヤのための基台」として、メシヤご自身が“サタン世界”、“堕落圏”(堕落人類)と闘って勝利して、それを取り戻してこなければならない基台です。前述したみ言の「エバを堕落圏から復帰して再創造し……」「サタン世界から奪い返して……」という場合の「堕落圏」「サタン世界」とは、まさしくメシヤご自身が闘って自然屈伏させて取り戻すという“三人の天使長”の状況そのものを指して語っておられるものです。すなわち、「堕落圏」「サタン世界」とは、具体的には、堕落した天使長圏のことを指しており、そこから取り戻すことを意味しているみ言なのです。
“三人の天使長”の基台が確立すれば、「エデンの園」が再現され、独り娘が顕現する条件が備わるのであって、エバそのものが、「堕落圏」(堕落している)「サタン世界」(サタンの血統)という意味ではありません。「エデンの園」の中のエバは無原罪であり、神の血統です。
したがって、メシヤは命懸けでサタンと闘って勝利することで、三人の天使長圏を自然屈伏させ、「メシヤのための基台」(三弟子)を確立しないかぎり、天使長圏(「堕落圏」「サタン世界」)からエバを奪い返して「聖婚式」を挙げることができません。これらの二つのみ言は“アダム自身による蕩減”“アダム自身の責任”について述べているものです。
一方、真のお父様が、前述のみ言で語っておられるように、「真の母」となられる「エデンの園」の中にいる独り娘は「堕落していない純粋な血統をもって生まれた方」です。
ところが、その「独り娘」(エパ)の場合も、人間始祖のエバが「エデンの園」で蕩減できず、歴史的に残してしまった”霊的堕落”の問題を、堕落したエバに代わって“蕩減”(「霊的堕落のみのときの救援摂理」)していかなければなりません。真のお母様が、一九六〇年のご聖婚以来、「神の日」宣布までの七年間、苦難の路程を歩まれたのは、人間始祖のエバに代わって“蕩減”され、“独り子(再臨メシヤ)”の前に完全相対である“独り娘”として立つためであったと言えるのです。
ただし、ここで勘違いしてはならないのは、真のお母様が「霊的堕落のみのときの救援摂理」をエバに代わって“蕩減”されるといっても、それは、お母様ご自身が「霊的堕落」をしておられるという意味ではないという点です。「霊的堕落」の罪を犯したのは、あくまでも人間始祖エバであり、お母様はそのエバを代理して「霊的堕落」を“蕩減”されたのです。
真のお母様は「無原罪」であられ、かつ「神の血統」であるがゆえに、長成期完成級をつまずくことなく越えられ、完成期の七年路程を人間始祖エバに代わって歩まれることで、真の父(アダム)と共に、勝利された人類の「真の父母」となられたのです。
(3)お母様は「神様を根として……現れた主人公」
『原理講論』は、「父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない」(264〜265ぺージ)と論じています。すなわち、重生するには「真の父」と「真の母」のお二人が必要です。すでに前回述べたように、もし、真のお母様が約婚や聖婚をされたときに原罪を清算し、初めて“神の血統”に生み変えられたとするならば、それは,“父一人”で生み変えたことになるために、「原理」が説く「重生論」と相入れません。ゆえにお母様は、約婚や聖婚をされる前から“神の血統”であったとの結論に帰結するのです。
事実、真のお父様は、真のお母様に対し「神様を根として初めて歴史上に……現れた主人公」であるとして、次のように語っておられます。
「統一教会の文先生を、何と言いますか。(「真の父母様」)真の父と言うでしょう?ここにいる韓鶴子氏は?(「真のお母様」)真の母だと言うでしょう?(「はい」)真の父だと言うでしょう?(「はい」)いくら見ても目も二つ、鼻も同じなのに、何が違いますか?根が違うのです。根が。皆さんは、サタン世界の堕落した父母を通した堕落の根を生まれ持ちましたが、統一教会の文某と、ここにいる文鶴子、文鶴子(文学者)でしょう?世界に文学者(注、韓国語で文鶴子と発音が同じ)があまりに大勢いてはいけないので、韓鶴子、たった一人の(ハン)鶴子…。鶴子様は根が違うというのです。神様を根として初めて、歴史上に真なる愛の論理を中心とした統一論理を持って現れた主人公だというのです」(マルスム選集148—40〜41)
このように、真のお父様は、私たちには「皆さんは、サタン世界の堕落した父母を通した堕落の根を生まれ持ちました」と述べ、その”対比”として「統一教会の文某と、ここにいる韓鶴子……たった一人の鶴子、鶴子様は根が違う」と語られ、真のお母様は「堕落の根」から生まれたのではなく、「神様を根として……現れた主人公」であると述べておられます。
真のお父様は、真のお母様(韓鶴子女史)が、堕落していない純粋な血統を持って生まれた方であると述べるにとどまらず、お母様も、お父様と同様に「神様を根」としてお生まれになった方である事実を明らかにしておられるのです。
み言は、神様と完全一体になられた真のお父様から出てきたものであり、そこに矛盾はありません。私たちは、真のお母様の語られる「独り娘」のみ言が真理である事実を明確にしておかなければなりません。