Category Archives: 天一国経典

何をもって生きるのでしょうか。愛をもって生きるのです。それが環境創造です

環境を備えることができなかった人は、どこに行っても自分がとどまる場所すらありません。自滅する道を行くというのです。力が出ません。周辺の環境が喜ばず、力が伴わないのです。環境が次第に遠く離れていきます。昔は慕わしく思っていても、嫌うようになるのです。もっと慕わなければならないのですが、もっと慕うことができる道がありません。それは、自分自身を中心として境界線を張ったからです。 「真の父母経」第十三篇、第三章、第一節より(メンバーサイト) 6     自分のためだけに生きる人、絶対的(に重要な)環境を尊重できない人は、無限なる発展の世界で、限界を露呈します。無限なる限界を自分が越えようとする前に、その本体である神様を立ててこそ、限界の基準を越えて無限なる発展の世界に越えていくのであって、そうでなければ越えることができないのです。今や最後まで来ました。何をもって生きるのでしょうか。愛をもって生きるのです。それが環境創造です。 環境を備えることができなかった人は、どこに行っても自分がとどまる場所すらありません。自滅する道を行くというのです。力が出ません。周辺の環境が喜ばず、力が伴わないのです。環境が次第に遠く離れていきます。昔は慕わしく思っていても、嫌うようになるのです。もっと慕わなければならないのですが、もっと慕うことができる道がありません。それは、自分自身を中心として境界線を張ったからです。「私」を中心として動こうと思えば、そこで定着し、その峠を越えられないので、宇宙との相関関係、相応関係の位置に入っていくことができないのです。原則に一致していない相対的存在は消えてしまいます。父母様は、そのような哲学をもって生きるのです。 7     完全な主体と完全な対象が一つになったものは、天理が保護しなければなりません。人間の事情と歴史的変遷が、これを動かすことはできません。いくら大韓民国の国権をもってしても、完全な主体の前に完全な対象となり、垂直を守っていく人は、打って倒すことができません。その人を打っても、天地が根と芽をしっかりとつかんでいるので、打って倒す存在がいないというのです。いくら大きくても、打った人が砕けるようになっています。それが生活哲学です。 神様を上にお迎えし、その下の垂直の位置で軸となって侍っている限り、それを神様がつかんで放さない限り、これを打った人が砕けるようになっているのです。これは家庭を代表し、氏族、民族、国家、世界、天宙を代表する柱になっていて、柱を保護できる天運が支えているため、打つ人は必ず砕けていくというのです。 8     父母様の生活はそうです。お金ができても自分が使おうという考えはありません。いくらおなかがすいても、私よりもっと空腹な人がいるので、そのような人のために残したいと思い、一時間、二時間、三時間、耐えて耐えるのです。他の人がおなかをすかせていれば、私よりその人に与え、その人が食べられるように、福を祈ってあげるのです。その人が食べられるように福を祈ってあげれば、その人が食べて福を受ける際に、同参(一緒に参加する)者になります。カインのために生きる人は、カインの福を相続できるのです。カインは変わりますが、私は変わらないので、しきりに上がっていくというのです。 み旨のために生きる人は、ヒマラヤ山脈のエベレスト山より高く上がり、太平洋の一万メートル以上の深さの所に根を下ろすというのです。

天一国経典「天聖経」第十一篇、第五章、第一節

[print-me target=”body”] 1 これから、皆さんが天の王子であり、天の国の群れであることを知って、自分のすべての環境に対する礼法を備え、自分の本分を遂行しなければなりません。祝福を受けたという人々が、そのようなことも知らずにいます。 それでは、統一教会の教会員は、これからどのようにすべきでしょうか。「神の日」を中心として、家庭の伝統を樹立しなければなりません。また「父母の日」を中心として、家法を立てなければなりません。「子女の日」を中心としては、一つの秩序を立てなければなりません。これらの日を記念するにおいては、世の中のいかなる名節よりも精誠を尽くし、喜びながら迎えなければなりません。 そうして、その家庭の伝統の起源が「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、「神の日」にならなければなりません。またこれらの日を祝う伝統を立て、自分の千秋万代の子孫に至るよう、天的家法をつくっておかなければなりません。これを中心として、「父母の日」から「子女の日」に直行し、ここから「万物の日」に直行して「神の日」まで直行しなければならないのです。 1 Knowing that you are heavenly princes and princesses and citizens of the heavenly kingdom, you need to acquire the proper set of rules for dealing with any situation in your life and fulfill the duties appropriate to your position. Yet, even blessed members do not know about this. What,… Read More »

神様が「この人は、私がありったけの愛を注ぐ人だ」と言い得る、一人の男性と一人の女性を求めてきたのです

~「真の父母経」第一篇、第二章、第一節より~ キリスト教でいう新郎と新婦とは、世界をすべて網羅して、神様の愛を受けることができるひとり子とひとり娘を探し出すことを意味します。完成した男性と女性がこの地上で出会い、婚宴を行ってこそ、新しい世界が開かれるのです。 7     神様は、失ってしまったアダムとエバの代わりの存在を求めています。聖書では、イエス様を後のアダムと言い、完成したアダムを生命の木と言っています。ですから、イエス様は、失ってしまった生命の木の代わりとして来られた方です。 しかし、イエス様は、使命を完結することができませんでした。神様と息子が喜ぶことができる一日をもつことができなかったので、再臨という言葉を残すようになったのです。神様がイエス様と共に喜ぶことができる一時、六千年の恨の心情を吐露し、神様と、あるいは今後来られる主と息子、娘の関係を結ぶ日が来るのです。神様のひとり子、イエス様がこの地上に来られて、もし亡くなっていなければ、イエス様がひとり子だと語ったので、神様は彼のためにひとり娘も送られたでしょう。 神様の二千年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。イエス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、二千年のキリスト教の歴史は、娘を求めるための歴史です。聖霊は、神様の娘として来られました。神様を解怨するその日が、「小羊の婚宴」の日です。 (007-303;1959-10-11) 8     今まで宗教は、理想的な一人の男性と理想的な一人の女性を求めてきました。神様が「この人は、私がありったけの愛を注ぐ人だ」と言い得る、一人の男性と一人の女性を求めてきたのです。キリスト教でいう新郎と新婦とは、世界をすべて網羅して、神様の愛を受けることができるひとり子とひとり娘を探し出すことを意味します。完成した男性と女性がこの地上で出会い、婚宴を行ってこそ、新しい世界が開かれるのです。ですから、来られる再臨主は、新婦を探し出して「小羊の婚宴」をしなければなりません。 (041-027;1971-02-12)

初愛を独占できる息子なのです。その次に、ひとり娘がいなければなりません。

ひとり子は、初愛を受けることができる王子です。神様の息子の中でも、初愛を受けることができるひとり子だというのです。初愛を独占できる息子なのです。その次に、ひとり娘がいなければなりません。新郎はひとり子であり、新婦はひとり娘です。結婚式をしなければなりません。それが「小羊の婚宴」です。主がこの地上に来て婚宴をするのです。 ~「真の父母経」第一篇、第二章、第一節より(メンバーサイトに全文掲載) 1     本来、人間始祖は、善なる父母として出発しなければなりませんでしたが、悪なる父母として出発したため、人間は、すべて悪なる父母の血統を受け継いで生まれました。神様の愛を「私」への愛としてそっくりそのまま受け、神様の懐に抱かれて、神様の直系の愛を通した血族として残された息子、娘にならなければならないのですが、そのようになれなかったというのです。ですから、その本来の立場に帰らなければなりません。これが正に、新郎と新婦を迎える「小羊の婚宴」です。 主がこの地上に新郎として来て、一人の新婦を探し、一つの基準の上に接ぎ木しなければならないというのです。それがキリスト教の主張する内容です。その基準を設定し、確固たる目的を立てた宗教が、キリスト教です。ですから、今日、民主世界がキリスト教文化圏において発展するのです。真の父母を迎えようとすれば、そのように発展しなければなりません。 今まで宗教は、一人の真の息子をつくるために努力してきました。神様は、一人の真の息子を探し出すために、今まで苦労されたというのです。ですから、世界宗教の教主たちの中には、女性がいないのです。(041-028;1971-12-12)) 2     数多くの宗教の経書の中で聖書が偉大なのは、神様が人類の親であると掲げてきたからです。これがキリスト教思想の源泉です。その次に、イエス様は「ひとり子である」と言いました。ひとり子は、父なる神様の愛を初めて受けることができる息子です。その次に、キリスト教思想は新婦思想です。イエス様はそのようなひとり子なのですが、新郎として来たのです。そのため、新婦が必要です。ひとり子がいるので、ひとり娘が必要だというのです。 新郎と新婦は、男性と女性です。新郎新婦の宴の日とは、神様が初めて愛の旗を掲げて現れる日です。そのような婚宴の席が、エデンの園から願われてきたのです。これが台無しになったので、人類世界の終末において、この婚宴の席を再び回復しなければならないというのです。(135-125; 1985-10-04) 3     イエス様は、「私は神様の息子だ」と言いました。そして、「神様は私の父だ」と言いました。その次に、「私はひとり子だ」と言いました。ひとり子は、初愛を受けることができる王子です。神様の息子の中でも、初愛を受けることができるひとり子だというのです。初愛を独占できる息子なのです。その次に、ひとり娘がいなければなりません。新郎はひとり子であり、新婦はひとり娘です。結婚式をしなければなりません。それが「小羊の婚宴」です。主がこの地上に来て婚宴をするのです。 「小羊の婚宴」をするようになれば、家庭をつくるようになります。神様が願うものが家庭です。神様が願うのは、人類を神様の愛を中心としてひとり子とひとり娘とし、神様が本当に愛し得る家庭をつくることなのです。(160-272; 1969-05-17)

CBG-10-3-2-3

We have to give in order to resemble God. Since you have received, you absolutely need to give. This movement will expand and multiply only through absolute sacrifice and unconditional giving. from CBG-10-3-2-3 神様に似ることができるように、与えなければなりません。受けたので、完全に、絶対的に与えなければなりません。絶対的に犠牲になり、与えることができてこそ、この運動が広がるのです。 「真の父母経」-10-3-2-3