1957-10-18-イエスの真の食口となろう


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文鮮明先生み言選集No.36

イエスの真の食口となろう

マタイの福音書十:一六-四二

一九五七年十月一八日(金)前本部教会

このマタイ十章の御言は、み旨のための最後の覚悟を持って、またこの地上でサタンとの闘いを指導しなければならない重大なる使命を持つイエス様が、愛する弟子たちを初めて伝道に送られてなされた御言です。

こ の御言を通して、我々はイエス様がきわめて悲しい心情のなかにも、弟子たちに対して無限の愛と愛着心を抱いておられたということを知るのです。反面イエス 様が選ばれたイスラエル民族に、新しい福音の御言を伝えるために弟子たちを送ろうとするとき、去ってゆく弟子たちの心情と事情も哀れですが、送られるイエ ス様の心情と事情も、誰にも言うこともできない気の毒な立場であったことを、知らねばなりません。

またイエス様は、億万サタンと闘わなければならない弟子たちが勝利して、アボジの栄光を歌うことを心から願い、あるいはその闘いの路程で倒れ、天に心配をかけるのではないかと案じてなされた御言であることを、皆さんは知らねばなりません。

弟子たちを伝道に送り出されたイエスの心情

こ の御言は、イエス様の愛する弟子たちが最後の闘いを覚悟してゆく歩みですから、そこには必ず怨讐たちが現れることを知られ、その時に彼らと闘って勝ち、勝 利の凱歌を歌い、彼らがアボジの息子・娘であることを証しする喜びの一時を迎えるよう心から祈願して、愛する弟子たちを励ます御言なのですが、今日皆さん はこの御言をその当時の使徒たちだけのための御言だと思ったら駄目です。即ち、この御言は今日キリスト教徒たちが闘ってゆくべき全人生の路程も暗示する御 言であり、今まで長い歴史過程を経てきて、キリストのみ旨を中心に地上に勝利の基台を立てようとする万民に対してなされた御言なのです。

我々 がここに、このように語られたイエス様の心中を推し量って見るとき、去ってゆく使徒たちの信仰を案じられ、また使徒たちが深く信じて難しい環境に処してゆ くことを感じられて、なされた御言であることを我々は知ることができるのです。それでイエス様は愛する弟子たちがサタンと闘い、勝利してアボジのまえに栄 光を捧げることを願い、誰にも言うことができない悲壮な覚悟と心情で、弟子たちに語られたことを皆さんは知らねばなりません。

また、ここに 皆さんはイエス様が愛する弟子たちを送られて、あなたがたが行く所々にあなたがたを歓迎する者がいないと言われましたが、これは天の息子・娘になるため に、天の道に従って行く者には、常に彼を窺っているサタンがいることを知って語られたという事実を、知らねばなりません。

さらに皆さんはイ エス様が「あなたがたの行く道を塞ぐ者は、信じない異邦人でもなく選び立てられたイスラエルでもなく、信じているユダヤ教徒でもなく、家の中の食口だ」と 語られたことを想起して見なければなりません。そして今日皆さんには、たとえ持っているものがなく、天のまえに捧げるものがなかったとしても、イエス様が なされた御言の意味を悟る人間になるなら、このような御言をなされたイエス様がどんな心情と覚悟と誓いの心で語ったかを、推察する人間にならねばなりませ ん。

この御言をイエス様自身に照らして推察してみるとき、イエス様には当時どこにもお互いの心情を交わし合う、一人の親友もなかったという ことを知るのです。また国はあってもその国は自分の国ではなく、選ばれた民族があってもその民族が自分の民族ではなく、立てられた教会があってもこの教会 が自分の教会ではなかったのです。自分を育てた家庭があってもその家庭が自分の家庭ではなく、自分と同居する兄弟があってもその兄弟が自分の兄弟ではな かったのです。

ですからこの御言をなされたその瞬間は、天を代身して歩んだ自身の事情をそのまま、この地上の弟子たちに受け継がせるための瞬間であったことを、皆さんは知らねばなりません。

また皆さんが知るべきことは「誰がキリストの真の食口になるだろうか」ということがイエス様が今日、皆さんに問うている内容であるのです。

地上に数多くの国があり、数多くの民族があり、数多くの家庭があり、数多くの人間がいたとしても、その中でイエス様の真の食口はいないのです。

それでイエス様は今日までこのような人間を捜し求めておられることを、皆さんは知らねばなりません。

そ れでは、イエス様が愛する弟子たちを、怨讐の懐に送られる目的が何であったのか。彼らを通してある教団を造るためではなく、彼らを通して選ばれたイスラエ ルの民を立てて国を造るためではなかったのです。まず愛する弟子たちを送り、天が喜ぶ食口、天のみ旨の通りに生活する天の真の食口を、求めようとされたの です。ですから、誰がキリストの食口になるかということが最も重要であることを、肝に銘じてください。

それでは、今皆さんはどうしなければ ならないか。皆さんには持っているものがなく、知るものもなく、誇るものがないとしても、神が皆さん一個体に接するその時は、イエス様の真の食口であると しなければなりません。即ち、神と共に永遠に同居する皆さんにならねばならず、神の栄光を現すことができる天の食口と神が認め、イエス様が認め、皆さん自 身も認めることができる姿にならねばなりません。そんな人間が正にアボジが捜し求める人間であり、キリストが捜し求める人間であり、皆さんが希望とする人 間であることを、知らねばなりません。

キリストのまえに堂々と立つことができる人間の心の姿勢

それでは、今イエス・キリストのまえに真の食口になるべき我々は、どうしなければならないか。皆さんは神のまえに現れた真の個人である独り子、即ち天の家庭に初めて現れた天の息子であるイエス様を、自身の生活圏内で侍って生きるイエス様の食口にならねばなりません。

こうして神のまえに、天の家庭圏内に第一人者として立てられたイエス・キリストの人生、即ちアボジの息子として、アボジの家で生きることができる基準を付与されたイエスキリストの生活が、正に我々の生活にならなければならないのです。

イエス様は不信の地に生きているイスラエル民族を今一度、天の懐に抱かせるための使命を成就する、神の息子であることを自ら証しされようと、「わたしは天の食口」と証しされたのです。

イエス様は誰が反対しようとこれを恐れることなく、アボジのみ旨を伝播して証し、瓢々単身、死を覚悟して命を捧げ、闘われたことを皆さんは知らねばなりません。

ですから今日皆さんも、神の息子であったイエス様が地上に来られ、ご自身のすべての人生を捧げて神のみ旨を証しされたように、そのイエス様の心情を証しする人間になり、サタンと闘う人間になり、神のみ旨を地の上に成すために、死ぬことができる人間にならねばなりません。

そ れでは、我々が証しする目的がどこにあり、闘う目的がどこにあり、どうして死を覚悟しなければならないのか?それはこの地上に暗黒のサタンの勢力があり、 皆さんを真の食口にさせないようにしているので、皆さんが証さなければならず、皆さんが闘わなければならず、また皆さんがみ旨のために、死ぬ覚悟をしなけ ればならないのです。

ところで怨讐たちは、神の心情を万民のまえに宣布するイエス様を迫害し、イエス様の行かれる道を妨げたのです。即ちイ エス様一人を殺すために、サタンが役事したのです。それでイエス様は、そのようなすべてのものをこの地上から追放し、撲滅するために、眠ることも食べるこ とも気にかけず、サタンを屈伏させるための路程を歩まれたのです。

即ち、イエス様はサタンのあらゆる攻撃を防ぎ止めるために、自分一身のすべてのものを犠牲にして、闘いののろしを上げたのでした。

ですから今日皆さんは、イエス様がこのように神のみ旨を証すために、死を意にも介せず闘いの道に出て、十字架の道までも行かれたということを思い、これが正に神の息子であるイエス様が行った道であったことを、知らねばなりません。

そ れでは、我々が今イエス様を信じて、希望していることが何でしょうか?それは我々が真の神の息子・娘になって、イエス様に侍って生きるイエス様の食口にな ることを、願っているということです。ですから今日皆さんが、まず天の心情を代身するイエス・キリストのまえに、堂々と立つことができる人間にならねばな りません。即ち、皆さん各自がアボジのまえに頭を垂れ、一つの事情圏を成して、イエス様が平安に安らぐことができる一つの垣を造ってあげる、イエス様の真 の食口にならねばならないのです。

なぜならば、当時イエス様がこの地上に来られて、安らかに休める環境を造ってあげる真の食口を得られな かったことが歴史的な怨恨であり、今日終わりの日に皆さんが、このようなイエス様の心情を慰めてあげ、解いてあげるイエス様の真の食口にならねばならない のです。イエス様を自分の兄のように、兄さんのように家庭で侍って生きて、その方の悲しみを自分の悲しみとし、その方の切なさを自分の切なさとして感じ、 彼を慰めることができ、その方の心配を自分の心配とし、代わって案じてあげることができる心情を持たなければなりません。もしも皆さんがこのような心情を 持てなかったら、皆さんはイエス様の真の食口になることはできません。これを皆さんは、肝に銘じてください。

イエス様の心情と人格に倣う人間

イ エス様はヨセフの家庭で三〇年の間、愛する弟妹たちと共に暮らしたのですが、その家族がこのような天の心情を持つ、イエス様の真の食口ではありませんでし た。家庭はあったのですが、イエス様が願う家庭ではなく、イエス様が願う食口ではなかったので、イエス様はこの村から追われ、あの村から追われる他はな かったのでした。のみならず、ユダヤ教徒から迫害され、イスラエル民族から迫害され、今までの歴史過程においても、迫害を受けてきたのでした。

こ のような迫害の中で、イエス様が悲しい心情を抱いて所望とされた事が何であったのか。イエス様は地上に来られて、アボジの心情を抱き、アボジの息子・娘の ために生き、アボジに侍り、アボジの食口として生きることを願ったのでした。またイエス様は、愛する食口たちを抱き、アボジを慰めるのみならず、その食口 までもアボジを慰めることができることを望んだのでした。ところがイエス様はそのような食口を持つことができないために、ユダヤ教団・イスラエル民族が全 部、不信する立場になったのです。

それでイエス様は「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人に子にはまくらする所がない」 (マタイ八:二〇)と言われて、どこにも頼る所がない悲痛なる心情を吐露されたのです。それゆえ今日、皆さんはイエス様のこのような事情に同情しなければ ならず、まくらする所もないイエス様の安息の場を造って差し上げなればなりません。ところで皆さんに、イエス様に侍る一つの家庭がなければ、皆さん自身の 心の中でもイエス様に侍り、イエス様に侍って寝てもらう場がなければ、自分の膝に寝ていただく心情を持つ、イエス様の真の食口にならねばなりません。

また皆さんは今まで、この地上に救援のみ旨を成すイエス様の真の食口になることを願っています。それゆえ今日皆さんはイエス様の所望を持って現れるにおいて、それに反対となる、また他の心を抱かせるすべての要素を除去できなければなりません。

イ エス様が天の心情を通してされる御言が、天の道を行くにおいては「自分の家の中の食口が怨讐」だとされました。イエス様はすべての人々を食口のように対さ れ、食口のように育てようとされたのですが、こんなイエス様のみ旨を少しも知らず、信じて頼りにしていた最も近い人々が、むしろイエス様と離れていったの です。そうしてサタンはこれを条件として、イエス様を十字架に押しやるようになったのです。ここで皆さんは、人類の生命の木として来られたイエス様が、こ のような自身の事情を代身する真の一食口を、どれほど願っておられたかを感じる人間にならねばなりません。

それでは、今日ここに集う皆さん がイエス様の事情と心情を知り、彼と永遠に同居することができる食口の立場に立つためには、どうしなければならないか。そのためには、イエス様の心情を代 身しなければなりません。いかなる環境、どんな所であっても天に対して変わることなく、忠誠を尽くしたイエス様の心情と人格に倣う、人間にならねばなりま せん。また、今や新しい道を開拓すべき使命を担う皆さんが、捜し立てなければならないことが何でしょうか。イエス様が平安に休まれ、愉むことができる環境 を成してあげる、イエス様の真の食口の立場を、皆さんが立てなければなりません。

それではイエス様が「自分の家の中の食口が怨讐だ」と言わ れた、その怨讐が誰でしょうか?イエス様が悲しむ時に悲しむことを知らない者が怨讐であり、天の心情を証すに切ない時に共に切なくはなく、理解することも できない者が怨讐であったことを知らねばなりません。また皆さんは、イエス様が行く道で、イエス様の母と兄弟たちがイエス様の真の食口になれず、怨讐に なったという事実を、はっきりと知らねばなりません。

さらには、あらゆる誠精を尽くし、心情を尽くし、ご自身の命を捧げて教えた弟子、即ち 三年の公生涯路程を共に歩んだ使徒たちまで、イエス様の真の食口にならなかった事実を、皆さんは知らねばなりません。イエス様が死の峠、十字架の峠を訪ね て行こうとする時、愛する弟子たちがイエス様の心情と一つになる真の食口になれず、イエス様の怨讐になったのでした。それゆえ今日皆さんは、このように 我々の先祖たちが神の心情を知ってあげず、神の求める摂理の時を迎えてあげず、神の真の食口にならなかった歴史的な事実を知らねばなりません。

イエスの真の食口になるには

で すから今日皆さんが、食口という言葉を使っていますが、この言葉は実に恐ろしい言葉です。もしも皆さんが信仰路程で誤ったなら、イエス様が神のみ旨を証し たその立場を妨げる怨讐になるのです。イエス様がサタンと闘った立場を妨げる怨讐になり、十字架に架かって人類の罪を贖罪した、そのみ旨を妨げる怨讐にな るのです。これを皆さんは、肝に銘じてください。

それではどんな人間が、イエス様の食口になるのでしょうか。彼はすべての人間に御言を伝え たかったイエス様に似る人間であり、イエス様がサタンと闘うときに苦労し、苦心して案じ、嘆息されたすべての心情を体恤することができる人間なのです。で すからイエス様が十字架の道を行くとき、ただ従って行く人間はイエス様の食口ではなく、十字架の道に行くまでの、その心情を知ることのできる人間がイエス 様の食口であることを、皆さんは明確に知らねばなりません。

そして皆さんはイエス様が地上に来られ、三〇年の人生の路程において真の証し人 の使命を負って現れるとき、イエス様を代身して証しする真の食口を持てず、サタンと闘うときに共に闘ってくれる食口、ゴルゴダの十字架を負って行く道にお いて、共に行ってくれる真の食口、さらには天地のまえに誇ることができる真の食口を持てなかったことが、最大のイエス様の辛さであったことを知らねばなり ません。

それでは、今日皆さんは何をしなければならないのか。二〇〇〇年前にイエス様が神のみ旨を証しするために切なかったように、今日の 皆さんもありったけの誠精を注ぎ、神のみ旨を証さなければなりません。また当時ユダヤ教とイスラエル民族の反対を押し切り、悲壮な心情と覚悟を持って、サ タンと対決して闘ったイエス様の心情、天のみ旨成事のために心砕いたイエス様の心情を抱き、代身してみ旨を成してあげる人間にならねばなりません。

さ らには、天のみ旨を成就するために行く道を塞ぐすべてのものを除くためには、命も捧げるという覚悟をされたイエス様のその悲壮なる心情を、皆さんは感じら れる人間にならねばなりません。また皆さんはすすんで民族を代身し、十字架を負うという祭物の精神も持つことができる人間にならねばなりません。

皆 さんはまた、イスラエル民族を代身して生きた祭物になるだけでなく、二〇〇〇年前のイエス様に心情に通じて、イエス様の人格を持つことができる人間になら ねばなりません。皆さんはサタンのまえに屈伏する、死んだ祭物になっては駄目です。イエス様の心情に染みて、神のみ旨を証しするのに落胆してはならず、サ タンと闘って敗北する人間になっては駄目です。

ですから、終わりの日にある皆さんは、死の峠を踏み越えて、怨讐を神の愛の懐に導いてゆくという悲壮な覚悟と心情を抱く人間になってこそ、イエス様の真の食口になることができるのです。

そ れでは、イエス様が神の大きなみ旨を代行して行かれるとき、誰がイエス様の心を悲しませたか。イエス様と最も近い人々が、イエス様の心を悲しませたので す。備えられたイスラエル民族が反対するのが悲しみではなく、ユダヤ教徒たちが反対するのが悲しみではなかったのです。三年の間ついて来た弟子たちが、信 じなければならない時に信じないで、証さなければならない時に証しをせず、闘うべき時に闘わず、死ぬべく時に死ななかったこの一つの事実が、イエス様には 最も大きな悲しみであったのです。これを皆さんははっきりと知るように願います。

それでは、皆さんがどうすれば、天の真の食口と言えるの か。まず皆さん各自々々の心が、一つの心に和合して動いて行かなければなりません。こうして一つの目標(み旨)に向かって闘ってゆき、またその一つのみ 旨、即ち神のみ旨を成就するために、死を覚悟して行く人間にならねばなりません。またイエス様が二〇〇〇年前にこの地上に来られ、天のみ旨をすべて成せず に逝かれることによって結ばれた、その怨恨を解いてあげ、慰めてあげる人間にならねばならないのです。このようなすべての事を成すときに、皆さんが天の真 の食口と言えるということを、肝に銘じるように願います。

真の食口のする事

それでは、今日皆さんは自 分の信仰路程において、何を持つ人間にならなければならないでしょうか。皆さんは食口を持つ人間にならねばなりません。皆さんが家庭に入れば、その家庭で 真の食口を持たねばならず、教会に行けばその教会で真の食口を持たねばならず、社会に出ればその社会で真の食口を持たねばなりません。

また皆さんはイエス様が神を代身して証して、神を代身してサタンと闘い、神を代身して逝かれたように、このようなイエス様のために闘わねばならず、イエス様のために死ぬことができなければなりません。

さ らには、皆さんはこんな立場に立った後に、自分を証してくれる一人の食口を持つ人間にならねばなりません。そのようになれば、イエス様を証した使徒たちが いたように、皆さんも自分を証してくれる人間が、生ずるようになるのです。即ち、皆さんが神の息子娘であるとする立場に立つためには、皆さんを変わらぬ神 の息子・娘であると証しする一人の食口を持たねばならず、皆さんの為に闘ってくれる食口を持ち、皆さん自身の為に死ぬことができる食口を持たねばならない のです。

こんな人間になるために、皆さんはどうしなければならないか?誰よりも多くの人間の為に、犠牲の道を行く指導者になることです。即 ち、多くの人の為に犠牲の闘いをしなければならないのです。言い換えれば、皆さんが多くの人の為に犠牲の十字架を負う真の聖徒になるまでは、皆さんを代身 して闘い、皆さんを代身して死んでくれる人間を持つことはできません。

イエス様は神の為に自分というものを一つも考えることなく、自分のす べてのものを捨て、犠牲の道を行ったので、彼が証しするのは自分を証すことではなく、神を証しすることであり、彼が闘うのもやはり自分の為に闘うことでは なく、神の為に闘ったのです。また十字架を背負うのも、自分に為に負うのではなく、神の全体摂理のみ旨を成すためであったのです。

それで、 今日まで数多くの聖徒たちはこのようなイエス様の為に証して、イエス様の為に闘い、イエス様の為に死んでいったのです。それゆえ今日、皆さんも復帰のみ旨 を完成して行く過程において、皆さんを証してくれ、皆さんの為に闘ってくれ、死ぬことができる食口を持たねばなりません。もしも皆さんがこのような食口を 持たなかったなら、天地のまえに怨讐の立場になるということを、知らねばなりません。

イエス様が地上に来られ、逝かれるようになった原因が どこにあったのか。ご自身の為に死ぬことのできる人間がいなかったからです。イエス様が地上において闘うようになった原因がどこにあったのか。ご自身の為 に闘ってくれる人間がいなかったからです。またイエス様が自らを証しする原因がどこにあったのか。ご自身を証してくれる人間がいなかったからです。

で すから、皆さんはイエス様の心情を代身したイエス様の食口にならねばならず、自分の為に証してくれ、闘ってくれ、死ぬことのできる一人に食口を持たねばな りません。もしもこんな皆さんにならなかったら、キリストの三〇余年の人生路程を、皆さんが蕩減して生きた祭物としてアボジのまえに捧げることができない 怨恨が、皆さんに残ってしまうのです。これを皆さんは、肝に銘じなければなりません。

それでは、今日皆さんはどうするべきか。真の食口を捜 し求めるこの一歩において、皆さんはイエス様が心配された、その心配の心情を抱き、また神が心配されたその心配の心情を持たねばならず、食口たちの為に祈 祷するその心を持たねばなりません。またイエス様は愛する弟子、愛する民族の為に祈祷されましたが、イエス様の愛を受けた弟子たちとイスラエル民族がむし ろ、イエス様を不信して結ばれたすべての怨恨を解いてあげ、慰労してあげる皆さんにならねばなりません。

ですから今日皆さんが、イエス様を中心とする教会と民族を捜し立てるためには、他の人が遊んでいるとき、神をサタンのまえに証しする事をすべきであり、他人が知らぬ間にサタンと闘い、死を覚悟する真の食口を捜し立てなければなりません。

イエス様の業績と一心同体になる家庭形成の重要性

そ れでは、イエス様は誰の為に十字架の死の場まで行ったのか。これは無論、愛する食口たちの為でした。さらには数多くの民族と人類の為だったのです。イエス 様が祈祷される時にも自分の為に祈祷するのではなく、万民の為に祈祷されたのでした。彼が証したこともやはりそうであり、彼が闘ったこともやはりそうであ り、彼が死んだこともやはりそうであったのです。ですから今日皆さんは、このようなイエス様の食口になるために、あらゆる誠精を尽くさなければなりませ ん。即ち、皆さんは証しの道を通して、闘いの道を通して、死に道を通して、イエス様の真の食口になるために、すべての誠精を注いで行かなければなりませ ん。

皆さん!皆さんはイエス様の審判台の前に、またサタンの前にも、自分の為に証してくれるこのような証し人を持っていますか?また皆さん の代身、サタンと闘ってくれる一人の食口を持っていますか?また皆さんを代身して死んでくれる一人の食口を持っていますか?このようなすべての事が、終わ りの日の皆さんの価値を決定づけるのです。ですから皆さんは、このみ旨を望み見て行くときにおいて、自分が今まで信じて望み、留まっていた立場がどのよう なものであるかを、知らねばなりません。

今日天のみ旨を立てて行く人間は、その過程において怨讐に出合うのです。まず家庭で自分の行く道を 塞ぐ怨讐があるようになるのです。即ち皆さんの家庭において、夫人が教会に行けば夫が怨讐になり、夫が行けば夫人が怨讐になるのです。子女が行けば父母が 怨讐になり、父母が行けば子女が怨讐になる、こんな状況にぶつかるのです。

それでは今皆さんはどんな立場にあるのか。今まで持っていた家庭 を失い、夫と夫人を失う立場に処しているのです。さらには、父母を失わなければならない立場に処しています。ですから今日皆さんは家庭の父母と共に、真の 父母を捜し求めなければならず、皆さんが真の新郎となり、真の新婦にならねばなりません。さらには神の真の食口にならねばなりません。

それ では、今日の皆さんはこのような人間になるために、どうしなければならないか。皆さんの家庭において父母が悲しめば食口も悲しみ、子女が悲しめば父母も悲 しみ、夫が悲しめば夫人も悲しみ、夫人が悲しめば夫も悲しむのでなければなりません。もしも皆さんの家庭において、一家の食口が一心同体になり、天のみ旨 を受け、そのみ旨を成してゆくことができる環境を得てゆかなかったら、皆さんのように哀れな人間はいないのです。そうなれば皆さんは家庭で追われ、社会で 追われ、国家から追われるのです。そのようになるとき、皆さんは天のみ旨を中心とする食口が必要になるのです。

世の中の父母に追われる代わりに、真の父母を持たねばならず、夫婦同士が不信する立場で、真の夫婦を形成することができる一人の食口を持たねばならないのです。

世の中のどんなものでも、切り離そうにも切り離すことができず、壊そうにも壊すことができず、死の場までも共に行く、こんな食口の関係を結ばなければなりません。

世 の中の父母も、子女が死の立場にあれば、代わって死ぬことができる愛の情を持っているのに、まして天の愛によって因縁を結ぶ皆さんが、この世の中の家庭以 上の愛を持って、互いに授け受けることができるそのような環境を造れなかったなら、皆さんが留まる所に、イエス様が臨もうにも臨むことができず、神がおら れて安息しようにも安息することができません。

それでは、終わりの日の最後の瞬間が迫るこの時に、皆さんはどうしなければならないか。皆さ んは同じ教会の中でも、お互いの心を知らず、お互いの事情と心情を理解しないでいるのですが、そうであっては駄目です。このように互いの事情と心情を知ら ないで生きることが、怨讐なのです。ですから今日皆さんは、隣りの兄弟に対する関心を持ち、彼の事情が自分の事情であり、彼の辛さが自分の辛さであるとす る、永遠の真の食口の関係を結んでゆかねばなりません。

即ち皆さんが神の切ない心情を抱き、お互いが一つの食口だという心で、父母と子女、夫と妻、兄と弟の立場で、互いに為に生きる真の食口の関係を結んでゆかなければならないのです。

イエスの真の食口-お互いの為に生きようとする関係を成す人間

と ころで、皆さんがこのような関係を結んで、神に侍り、神を安息させてあげようとするとき、必ずこれを妨げる怨讐が現れるものです。今まで皆さんが因縁を結 んできたものが、怨讐として現れるというのです。またこの怨讐は皆さんの家庭に、社会に、国家に、さらには我々が生きているこの世界にあるというのです。

で すから、今日皆さんは家庭と社会・民族・国家・世界にある怨讐を除去して、天上まで行かなければならない重大な責任を背負っているのです。即ち皆さんは、 神の事情とイエス様の心情を通して、一つの父母に侍り、家庭を成して、社会・国家・世界までも連ねて行かなければならない重大な使命を背負っているので す。それゆえ今、皆さんは食口の立場でお互いに証しすることができ、闘うことができ、死ぬことができるそんな関係を結んで行かなければなりません。真実そ のような皆さんたちになってこそ、皆さんはイエス様の真の食口になることができることを、肝に銘じてくれるよう願います。

<祈祷>

愛するお父様!今日ここに集まった子女たちを、あなたの真の食口の立場に立ててください。

今日、自分を中心にして、アボジの心情と和合することがきないことがあるなら、これがアボジのまえに怨讐の立場に立つ条件になるということを、この時間に知るようお許しください。

愛 のお父様、今日の私たちは天の心情を体恤して、その心情を愛する食口たちに伝えてあげるための、証しの闘いをしなければならず、またこれを妨げるサタンに 対して闘わねばなりません。またこのような事が成されなかったなら、命を捧げてもこの事を成してゆかなければならない責任が、私たちにあるということを知 るようお許しくださり、愛するお父様、切に望み願います。(中略)

また私たちの教会全体が一つになり、近づく民族的な怨讐の群れを防ぐことができますよう助けてくださり、さらには神のみ旨を中心に新しい民族が団結して、世界的な怨讐を防げるよう助けてくださることを、愛するお父様、切に望み願います。

私 たち各自が民族の為に闘い、人類の為に祈祷し、人類の為に死ぬことができる覚悟を持って行ったなら、神を私たちの家庭の中心、社会、民族・世界の中心とし て侍ることができ、またこのような私たちになればイエス様の真の食口になれるということを知りましたので、愛するお父様、このような立場まで行けますよう に導いてくださることを、切に望み願います。すべての御言を主の御名によって、祈祷いたしました。ア-メン。*

(訳佐藤昌樹)