~「真の父母経」第一篇、第二章、第一節より~
キリスト教でいう新郎と新婦とは、世界をすべて網羅して、神様の愛を受けることができるひとり子とひとり娘を探し出すことを意味します。完成した男性と女性がこの地上で出会い、婚宴を行ってこそ、新しい世界が開かれるのです。
7 神様は、失ってしまったアダムとエバの代わりの存在を求めています。聖書では、イエス様を後のアダムと言い、完成したアダムを生命の木と言っています。ですから、イエス様は、失ってしまった生命の木の代わりとして来られた方です。
しかし、イエス様は、使命を完結することができませんでした。神様と息子が喜ぶことができる一日をもつことができなかったので、再臨という言葉を残すようになったのです。神様がイエス様と共に喜ぶことができる一時、六千年の恨の心情を吐露し、神様と、あるいは今後来られる主と息子、娘の関係を結ぶ日が来るのです。神様のひとり子、イエス様がこの地上に来られて、もし亡くなっていなければ、イエス様がひとり子だと語ったので、神様は彼のためにひとり娘も送られたでしょう。
神様の二千年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。イエス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、二千年のキリスト教の歴史は、娘を求めるための歴史です。聖霊は、神様の娘として来られました。神様を解怨するその日が、「小羊の婚宴」の日です。
(007-303;1959-10-11)
8 今まで宗教は、理想的な一人の男性と理想的な一人の女性を求めてきました。神様が「この人は、私がありったけの愛を注ぐ人だ」と言い得る、一人の男性と一人の女性を求めてきたのです。キリスト教でいう新郎と新婦とは、世界をすべて網羅して、神様の愛を受けることができるひとり子とひとり娘を探し出すことを意味します。完成した男性と女性がこの地上で出会い、婚宴を行ってこそ、新しい世界が開かれるのです。ですから、来られる再臨主は、新婦を探し出して「小羊の婚宴」をしなければなりません。
(041-027;1971-02-12)