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み言に侍る真の父母様の姿勢、真の父母様の生きた証『真の父母経』-「祝福家庭」2015-秋季号より

~「祝福家庭」2015年秋季号、天一国経典を訓読しよう、座談会より引用(全文はメンバーページに掲載されています)-2 み言に侍る真の父母様の姿勢 M:         3つの天一国経典がそろい、いよいよ本格的に基元節の伝統を培っていく時代に入りました。 天の伝統の中心が訓読生活だと思いますが、訓読会について、具体的な内容を伺っていきます。まず、訓読会の目的と意義について伺います。 S:          「訓読」という言葉自体、真の父母様から提示されました。それまでは「拝読する」「学ぶ」などと表現していたのです。「訓読」というと、まず浮かぶのが訓 読会を生命視される真の父母様のお姿です。どんなにお疲れでも、どんなに遅くお休みになっても、あるいは病床にあられた時でさえ、訓読会を欠かされたこと はありません。一心にみ言に耳を傾けていらっしゃいました。 み言を発信したのは、ほかでもない父母様ご自身です。そのみ言の基である父母様が、み言の前に絶対対象の立場に立っておられるのです。父母様が身をもって示してくださったこの「み言に聞く」という姿勢が、私たちにとっても非常に重要です。 M:         み言を絶対的中心として、み言に尋ね、み言に聞く、み言に返るということですね。 ただ訓読会というと、時間を決めて、ある時間にあるみ言を条件的に読む、というのが訓読会だとイメージしている人が多いのではないでしょうか。 S:          大事なことは、訓読しているみ言が言わんとしているメッセージ、み言の本質を見いだすことです。そして、その日、あるいは一週間、ひと月、ひいては一生涯を懸けて追い求め、私たちがそのみ言の実体になっていくことです。 T:        訓読の「訓」はみ言の川と書きます。私は、訓読とは自分の心の中に神様の愛が流れる川を作る作業ではないかと感じています。 私たちの心の中にはいろいろなごみが溜まっています。そのごみを洗い流すための川や堤防を作るのが訓読であり、そのごみをざーっと洗い流してくれるのが訓読の恩恵ではないかと。 神の愛がいつも流れるように、訓読を定着させていくのが訓読生活です。訓読によって、神主義の原点が築かれるんだと思うのです。 M:         訓読によって、み言を実体化させ、神主義の原点をつくり、私たちがみ言の実体になっていくということですね。 真の父母様の生きた証『真の父母経』 M:         O副院長は、『真の父母経』日本語版の編纂で訓読を重ねられたと思いますが、その中で感じられたことはありますか。 O:        読み合わせをする中で、真の父母様の歩みや心情に触れさせていただきました。涙で訓読を続けられないこともしばしばありました。 M:         例えばどういう箇所ですか。 O:        たくさんあるのですが、特に涙したのは、ダンベリーのところでした。 お父様が冤罪によってアメリカのダンベリー刑務所に収監されたのです。普通の人なら落ち込むところでしょう。ところが、お父様は「ダンベリーで神の愛を感じた」とおっしゃるわけです。 刑務所ですから、朝起きる時間から掃除や食事、仕事、寝る時間まで管理されています。睡眠時間もだいたい8時間取るようになっていました。その時間も、お父様は訓読や祈祷をされるなど、天の前に精誠を尽くしておられたのですが。 お父様は、神のみ旨を携えて、長年、不眠不休で人類の救いのため、神の解放のために歩んでこられました。その間、お父様の睡眠時間は、毎日1、2時間あるかないかという状態だったようです。 そのお父様が、ダンベリーの生活はむしろ恵みだったと神様に感謝していらっしゃいました。「こうやって、神様は私に休む時間を与えてくれた」「刑務所に送り込んででも、自分を安らかにさせようとしてくださる神の愛を感じた」と。 このような表現に出会ったとき、我慢しきれなくて嗚咽してしまいました。 S:          『真の父母経』には真の父母様の自叙伝に通ずる世界があるかもしれません。父母様の生きた証といいますか、実際に父母様が体験し、呼吸し、あるいはぶつかってこられた世界が克明に記録されているわけですから。 それ自体が、我々が目指すべき世界ですね。自分自身もそういう道を行かなければいけないという、極めて具体的な教えとなって私たちの霊人体の中に入ってくるのです。 (つづく)